1882年(明治15年)に創設された早稲田大学は、戦前、戦後を通じて、日本でもっとも多くのジャーナリストを輩出してきました。
早稲田大学の学部・大学院の進路先追跡調査(早稲田大学キャリアセンター調べ)によると、卒業生約1万2000人(判明分)のうち、毎年700人以上が、「新聞」「出版」「放送」「広告・制作」「印刷」といったマスメディアに就職しています。全卒業生の約6%という数字です。
なぜ早稲田はジャーナリズムなのでしょうか。
その原点は、創設者の大隈重信(1838~1922)が人類の理想を高く掲げる一方で、反骨と批判の精神を学問の基本に据えたところにあるといえます。大隈は2度の総理大臣を経験しましたが、人生の多くは在野であり、自主自立を自らの信念としました。民主主義が全国津々浦々に行き渡ることが理想と考え、国民が広く情報を共有することを重視しました。
この大隈のもとから巣立ったジャーナリストとしては、木下尚江、丸山幹治、馬場恒吾、緒方竹虎らがその思想と気骨の確かさゆえによく知られています。また、その生き様が広く人口に膾炙している人物として石橋湛山(1884~1973)がいます。
石橋は早稲田大学で哲学を学んだあと、東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社。ほどなく退社して、東洋経済新報社に転じ、長くジャーナリスト、言論人として活躍しました。反戦反軍思想、小日本主義思想などを論じ、「野に石橋あり」との評価を得たと言います。1956年には総理大臣に就任し、短命内閣で終わりましたが、終生、在野の精神を忘れませんでした。2000年には、彼の精神を継承するため、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞が制定されました。
終戦後の1946年には、日本の民主主義の基礎を築く目的で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもと、早稲田大学政治経済学部に新聞学科がつくられました。優秀な新聞人の養成が期待されましたが、新聞社が、大学教育ではなく、社内教育のオン・ザ・ジョブ・トレーニングを重視する傾向があったことに加え、学部教育としてはあまりに専門的に偏するなどの意見があり、1966年に新規募集を停止し、新聞学科はなくなりました。
一方で、1965年にマス・コミュニケーション研究に関するコースを大学院に設置する、という決定が政治経済学部教授会でなされました。
大学院政治学研究科のジャーナリズムコースは、そうした歴史の中で誕生しました。
早稲田とジャーナリズムの親和性は在野の精神だけではありません。
早稲田大学OB(政経)で、2008年11月に永眠されたジャーナリスト、筑紫哲也さんの残した言葉が、その秘密を解き明かしてくれます。「NEWS23」(TBS系)の人気コラムだった「多事争論」の最終回で、筑紫さんは「変わらぬもの」と題して語りました。
「少数派であることを恐れないこと、多様な意見や立場をなるだけ登場させることで、この社会に自由の気風を保つこと」(2008年3月28日)
これは番組の精神について触れたものですが、まさに、早稲田が脈々と培ってきた精神だと思います。校歌にある「進取の精神、学の独立」の真意は、雁字搦めではない自由な気風に根ざしています。
多様で自由な言論空間こそ、ジャーナリズムが守るべき最大の宝であり、だから、早稲田なのです。